
概要
生年月日 |
1923年10月15日 |
出身 | 山口県周防大島町外入 |
職業 | 大工、便利屋 |
趣味 | 野菜作り |
部隊 | 陸軍38師団・柴田修三大尉部隊・砲兵 |
岡本次郎さんは1923年に生まれ、城山尋常小学校を卒業後、高等科へ進学。14歳で朝鮮半島に渡り、大工の見習いとして修行を積みました。18歳の時には棟梁となり、学校建築一式を約3か月で完成させるほどの腕前を持っていました。
19歳で徴兵検査のために帰国し、20歳で山口の陸軍歩兵連隊に入隊。日中戦争の戦線に送り出され、中国・紫金嶺で連隊砲部隊に配属されました。その後、荊門での戦闘中に首に被弾し、意識不明の重体となるも、奇跡的に一命を取り留めました。
終戦直後の1945年9月9日、23歳の時に満州でソ連軍の捕虜となり、シベリアへ連行されました。そこでの生活は過酷を極め、4年3か月もの間、十分な食事も与えられず、極寒の地で苛烈な労働を強いられました。
27歳で帰国後、大阪で39年間にわたり大工として生計を立てました。67歳で故郷に戻り、野菜栽培を始め、101歳を迎えた現在も、毎日畑に出て農作業を続けています。
岡本次郎の歩み
趣味としての野菜作り
外入東泊在住の岡本次郎さん101歳は、毎日趣味で野菜作りをしている。白菜、キャベツ、ブロッコリー、はなっこりー、にんじん、ダイコン、ほうれん草など、全部で22種類を育てている。
かつては頼まれて11箇所もの畑を耕し、素人ながらみかん作りにも携わっていたが、現在は自身のペースを大切にしながら野菜作りを楽しんでいるという。
年齢を重ねるにつれ腰の痛みが増し、無理がきかなくなり、現在は畑作業の際には10メートルごとにみかんの収穫籠を置き、その距離まで草取りや耕しを行ったら休憩をとるようにしている。こうすることで、身体に負担をかけすぎることなく作業を続けられるのだ。頭の中で「どのタイミングで休憩を取るか」を計算しながら畑仕事をしているという。
幼少期の厳しい教育
岡本次郎さんは、山口県周防大島の外入で5人兄弟の次男として生まれた。幼い頃から祖父の厳しい教育のもとで育てられた。
4歳の時、祖父が肥料を運ぶ際に「クワを持ってこい」と言われたが、次郎少年はそれを拒否した。その時、祖母が「それなら道の途中まで持っていって、遠回りして帰ってこい」と言い、しぶしぶそうした。ところが、祖父が帰宅すると怒り、次郎少年だけでなく、なぜか母親までも叩かれた。その様子を見た次郎少年は、病弱な母親が理不尽に祖父に叩かれるのはかわいそうだと感じ、それ以降は祖父の言うことを聞くようになった。
こうして、幼少の頃から草刈りの仕方を教わり、祖父とともに山へ行く日々を送ることとなる。
学校生活と学業
3歳年上の兄は長男として大切に育てられたが、次郎さんは幼い頃から農作業に駆り出された。家が忙しい時には学校を休むことも多く、勉強よりも畑仕事を優先する生活だった。さらに、父親は教育に対してあまり関心がなく、「いろはが書けて、足し算と引き算ができたらそれでいい。あとはわからないことがあれば人に聞けばいい」と言うような考えを持っていた。そのため、次郎少年の学校の成績は常に最下位だった。
しかし、体を動かすことは得意で、小学5年生・6年生の時の担任の先生から「なんでもいいから一番になれ」と言われると、勉強ではビリで一番のままだったが、体力面では一番を目指した。鉄棒では大車輪を見よう見まねでこなし、懸垂やぶら下がりでは7分間耐えた。さらに、潜水は3分、海では60メートルも潜れるほどだった。
14歳で朝鮮へ渡り、大工見習いとして修行
小学校を卒業した後、次郎さんは14歳で朝鮮へ渡り、大工の見習いとして働き始めた。
当時の朝鮮では水道が整備されておらず、水道の蛇口をひねっても水が出るような環境ではなかった。そのため、職人たちの食事の準備のために、リヤカーに給水缶を7本載せて水を汲みに行くのが彼の仕事だった。水を運び終えたら、薪を使ってご飯やおかずを炊き、職人たちの食事を作る。こうした生活を2年間続けた。
また、風呂に50日から60日入れないことも珍しくなかった。島々に行く際はまだ帆船を使っており、木材の輸送も簡単ではなかった。時には1ヶ月も船が来ないことがあり、その間は毎日朝昼晩、魚ばかり食べる生活だった。焼いた魚がおかずで、炊いた魚がご飯だったという。そんな状況を見かねた学校の先生が麦をくれたこともあったが、5、6人で分けると1週間ももたなかった。
当時、現地の職場では、日本人は次郎さん一人で、あとはすべて朝鮮の人たちだった。彼らは仕事ができず、遊び歩いていることも多かったという。次郎さんは標準語ではなく、朝鮮の方言を覚えながら現地での生活に適応していった。
18歳で学校建築を任される
大工見習いとして働きながらも、次郎さんはなかなか本格的な大工仕事をさせてもらえなかった。左官仕事や基礎工事の手伝いばかりで、建築の技術を学ぶ機会が少なかった。
そこで、3年目の時に師匠に「大工仕事をさせてほしい」と直訴した。すると、師匠は学校の設計仕様書を持ってきて、「お前、これをやれ」と言った。こうして、18歳の時に初めて学校の建築を任され、ようやく大工としての仕事に本格的に携わることができたのだった。
岡本次郎さんは、朝鮮で4年間の大工修行を経たのち、5年目に叔父に連れられて現在の北朝鮮へ渡った。18歳の時、彼は校舎6教室、校長宿舎、小使室、便所2棟の建設を請け負い、見事に完成させた。この若さで一つの学校を建て上げるという経験は、彼の技術力と責任感を大いに高めるものとなった。
翌年、元請けの親方から「来年もぜひ来てほしい」と誘われたが、次郎さんは「来年は徴兵検査があるため、兵隊に行かなければならない」と断った。その後、日本へ戻り、広島で友人とともに仕事をすることになった。
広島では、戦場へ向かった御用船やさまざまな船が、爆撃を受けて損傷し、多くが戻ってきていた。次郎さんは、これらの船を修復する仕事に従事し、徹夜作業をこなす日々を送った。その苦労の見返りとして、当時としては破格の給料を得ることができた。戦時中の混乱のなかで、彼の大工技術は船の修復という新たな分野でも活かされていた。
昭和17年、軍隊へ入隊

昭和17年10月、ついに次郎さんは徴兵され、軍隊生活が始まった。しかし、学校教育をほとんど受けてこなかった彼にとって、軍の教本や指令書は難解なものであった。「歩兵操典」や「戦陣訓」などの軍書には漢字が多く使われており、それを読むことができなかったため、戦友に頼んで添え書きをしてもらった。それでも内容の理解には苦労したという。
学問には不自由したものの、次郎さんは軍隊の中で人が嫌がる仕事を率先して行った。野戦では仮設トイレが設置されるが、将校用、下士官用、一般兵用と分かれており、戦場の過酷な環境では多くの兵士が体調を崩していたため、トイレの衛生状態は非常に悪かった。誰も掃除をしたがらなかったが、次郎さんは暇さえあれば自ら進んで掃除をした。
また、彼の部隊は馬部隊であり、合計36頭の軍馬の世話を担当していた。馬の手入れの方法を学び、タオルで顔を拭き、肛門をきれいにし、足の汚れをヘラで取り、雑巾で拭いた後、油を塗るという作業を丁寧にこなした。こうした細やかな作業は彼の性分に合っており、軍隊の中でも評価されるようになった。
軍隊では「運」が大きく影響すると言われていた。年功序列の制度もあったが、内地にいれば2年で除隊となる一方、野戦部隊にいると帰還は困難だった。次郎さんが配属されたのは中国・武漢のさらに奥地、最前線の部隊だった。
軍では、1年経てば上等兵、2年で兵長、3年で軍曹と昇進していく仕組みになっていたため、過酷な環境ながらも、昇進の見込みがあることで不満はあまり出なかったという。
中国戦線へ—南京から最前線へ
次郎さんは、博多から朝鮮へ渡り、汽車で北京を通り越し、最初の赴任地である南京へ向かった。揚子江を渡ったが、戦争が激しかったはずの南京市内では、意外なことに戦争の悲惨な痕跡がほとんど目に入らなかった。城壁が傷んでいるかと思いきや、治安は良く、市内は比較的落ち着いていたという。
彼らは丸腰のまま南京に入った。「戦場へ行くのに鉄砲も持たずに行くのか」と不安に感じたが、最前線に到着して初めて、大砲部隊の装備と訓練を受けることとなった。次郎さんの部隊には大砲が3門配備されており、大砲の撃ち方や扱い方を学びながら戦地へと進んだ。
軍の教本「歩兵操典」によると、大砲部隊の主要な任務は「敵の重火器を撲滅、あるいは制圧すること」とされていた。戦場では厳しい環境の中、多くの兵士が体調を崩し、病人が続出していた。過酷な戦地での軍務は、次郎さんにとって新たな試練となった。